祈 り

 

 

神の名

 

神よ、あなたはご自身を表わされました。

ですから、あなたに名前をおつけしましょう。

あなたは私の神、私の両親の神です。

 

信仰の父であるアブラハムの神、

約束された息子であるイサクの神、

神よ、あなたはヤコブを愛され、ヤコブもあなたを愛しました。

 

あなたは、生きておられる神、救い主、歴史の神です。

大変に異なった王様です。

あなたは、今居られ、過去に居られ、永遠に居られる方です。

 

あなたは父であり、兄弟であり、友である神です。

そして、外国人であり、見知らぬ方であり、すべてであられる。

現在であり、過去であり、未来である“主”です。

 

でも、あなたはこうした全てをはるかに超える方です。

あなたの前で、言葉は意味を失い、空虚です。

どのような人間の言葉も雑音にすぎません。

いかなる言葉にも、あなたを捉えることはできません。

 

あなたは、人が名づけられない方。

そして、あなたを表わすには、

私たちは沈黙する他ないのです。
 

 

イエスの名

 

イエスよ、あなたは私たちのために人となられました。

ですから、あなたに名前をおつけしましょう。

 

あなたは贖い主なる神。

世界の国々の希望。

人間性の救い主。

私たちの側に居られる方。

 

あなたは、兄弟なる神。

世界の知られていない人々の中に隠れた、

偉大なる見知らぬ方。

 

あなたは、私たちを恋しておられる神。

拒絶された神。

あなたは傷ついた生け贄にされた羊。

兄弟たちに与えられる一切れのパン。

 

あなたは謙遜。

あなたが木にかけられて死んだ一粒の麦であるとは、

誰も知らない。

 

あなたは裏切られた友。

美しさも、そうした姿も、面影もない方。

あなたは人ではなく、虫けら。

あなたは唯一なる方、太陽、不可解で、見捨てられた方。

 

そして、あなたはこのすべてでもない。

あなたは、人の口では捉えることのできない狂気の神。

あなたの名を表わすには、いかなる言葉もあまりにも尊大すぎます。

 

 


 

五旬祭の日が来て、

 

     
肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

 

 

 

 

 

 

 

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。  肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

 


そして, 週の 初めの 日の 早朝, 日が 上ったとき, 墓に 着いた.

 

末席
ある修道院長様が、自分の若いときの経験を次のように話されました。「私は、修道院に入ったとき、すべてのことに一番になりたい、と思っていました。いちばん賢く、最も聖なる者であり、謙遜に秀で、素晴らしい隠世修道者になりたいなど、と考えていました。しかし、しばらくして、修道者のなかでいちばん小さい者であることで満足することに、平安を感ずるようになりました。どのようなことかと言うと、それは小さなことがらです。たとえば、だれかが何かを頼みにきたときに、断らずに、快く受けること。兄弟である修道者たちに奉仕するとき、待たせずに、また自分の好みで勝手に行なわないこと。他の人たちの成功を、自分のこととして喜ぶこと。そして、自分が失敗したときに、これも生活の一部として、決して落胆しないことなどです。
そして、あるクリスマスの夜、馬小屋の飼い葉桶に寝かされている幼いイエスさまの前で、祈っていました。すると、幼きイエスさまが、私の心に語られました。「末席は私が選んだ場所です。だれにも渡すつもりはありません。でも、もしあなたもその場所を望むのなら、わたしと一緒におすわりなさい。」

待降節
待降節は、イエスへ向かっての歩みです。マルコ福音書は、「気をつけて、目を覚ましていなさい.その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」 (待降節第一主日、B年)と記しています。 洗礼者ヨハネのように、私たちも、救い主である神の独り子イエスへの道を歩み始めるべきです。(待降節第二主日、B年) 洗礼者ヨハネは、「主への道を準備し、主の道をまっすぐにする。」(待降節第三主日) 天使ガブリエルは、乙女マリアのところに遣わされた。そして言った。「聖霊があなたにくだり、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。… 神にできないことは何一つない。」そして、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」〔待降節第四主日〕と答えた。  待降節のそれぞれの週を、ミサで読まれる福音書の内容にしたがって生活するようにお勧めします。今からそのように生き始めませんか。なぜなら、神の独り子イエスは、あなたのためにお生まれになるからです。

 

 


病者の祈り

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さをさずかった。
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた。
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困をさずかった。
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さをさずかった。
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 生命をさずかった。
求めたものは、一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。
       
(ニューヨークリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩です)     




お問い合わせ

モンセラートのサン・ベネット修道院 
2002年〜2003年

 

THANK YOU FOR SHARING OUR VIRTUAL IMAGES